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ちんどん通信社の歴史
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ちんどん屋の元祖「飴勝」登場
千日前の大阪法善寺の飴売り、飴勝は、竹製の鳴り物と売り声で人気者になった。 この売り声を売ることが出来ないかと考えた飴勝は、寄席の客寄せを請け負う。 短い法被に大きな笠脚袢にわらじ、拍子木をさげて町にで、「今日は松屋町の何々亭…」とやった。
これがちんどん屋の元祖といわれている。
ちんどん屋の元祖
大阪の勇亀が、はじめて「東西、トーザイ」
飴勝の仕事を引き継いだ勇亀は、芝居の口上をまねて「東西、トーザイ」と大声で叫びつつ、町中を触れ回った。このため勇亀は『東西屋』と呼ばれる。以後路上広告業は、「東西屋」に。
東京で「広目屋」秋田柳吉
大阪出身の東西屋、秋田柳吉が初めて東京で、東西屋式の宣伝を行った。秋田は広目屋と名乗り、東西屋の拍子、口上に、さらに軍楽隊をプラスし、楽隊広告を誕生させた。彼のまねをする業者が増え、宣伝行列のことを広目屋というようになった。
サンドイッチマン銀座に
行灯のような木枠に紙を貼り、そこに広告文をかいたものを背負って町を歩き、夜はろうそくをつけた。
サンドイッチマン
広目屋いざ大阪へ
中之島にあったホテル自由亭が、専属音楽隊を雇い入れ、楽士達を人力車に乗せて、大阪中を吹き回った。大阪人が鳴り物いりの広告を見たのはこのときが初めて。
丹波屋栗丸 滑稽鳴り物入りで
大阪の栗売り、丹波屋栗丸は売り声と口上が評判で、かしわ屋などの宣伝も受け持った。松に羽衣つきの長半纏が大うけ。ラッパや太鼓も使い「滑稽鳴り物入り路傍広告業」と呼ばれる。アイデアマン。 すごい宣伝明治屋が、高さ1.8m以上のビールの貼りぼてを着た、数十人の騎馬隊を編成。銅鑼や太鼓の鳴り物で横浜から東京まで行列を行った。
滑稽鳴り物入り路傍広告業
ライオン歯磨き大移動
沼津から広祖真までの大パレード。「ライオンの歯磨き」と書いた50〜60本ののぼりをたてて行進。 のち音楽隊広告の人気はますます高まるばかり。だが…
日露戦争
大阪では栗丸が、純日本式の鳴り物入り宣伝隊を組織。大太鼓、〆太鼓、鉦、三味線、横笛などを使った。
株大暴落
明治40年代、活動写真が大人気。楽隊時代終わる。広告は新聞が主流。楽隊広告、東西屋、広目屋、は急速に仕事を失う。
関東大震災
時代に取り残された広目屋、東西屋は都市を追われ、4〜5人の編成で、鉦と太鼓を鳴らしながらの街回りが精一杯。
東西屋、広目屋が、ちんどん屋と呼ばれはじめる
大正時代に考案された「ちんどん太鼓」。ひとりでいろんな楽器を演奏できるよう鉦と太鼓を一緒にしたものだが、ここから東西屋、広目屋は「ちんどん屋」と呼ばれだした。 室生犀星の短編『チンドン世界』は、昭和初期、東京の場末に住む広目屋夫婦の話。 『軍楽隊なんて奴はプウカプカドンドンで、すっと街を素通りにしてしまって、なにも効果 はありませんや。 それよりか街の女や子供まで面白がられる広目屋さんに限りますよ。第一、印象的で街の人達とも顔馴染みがありますからね』というくだりがある。

失業楽士 ちんどん屋へ
この頃映画がトーキー化。職を奪われた楽士達は、技術を生かせるちんどん屋に入ってきた。サーカスの楽士、寄席の芸人、大道芸人や物売り、ただの声の大きい人、夜逃げしてきた人などが同居するようになった。
広告ラッシュ
都市の近代化が進み、広告もそれにふさわしい変貌を遂げた。当時の広告ベスト3は宛名広告、新聞折り込み、引き札だった。こんな中でチンドン屋はかなりの苦戦を強いられた。
第二次世界大戦・ちんどん屋禁止令
他の大道芸も一切禁止。ちんどん屋が浮かれて町を歩く時代ではなくなった。
全盛期 チンドン人口2500人
経済的には成長したが広告メディアがそれに追いつけなかった過渡期に、ちんどん屋は再び街頭に現れた。ちんどん屋の黄金時代。ブラスバンドのスネア・ドラムを持つ十人編成も登場。
ちんどん屋といえば古くさい
昭和30年代後半からテレビが普及。大衆の音楽の好みの変化もあり、ちんどん屋は古くさいといわれるようになった。
 
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