チンドン屋に、口上ってのがあります。
演奏しながら街を歩き、四辻などで演奏を止めて、おもむろに「東西~東西~」って声を発したもんです、昔は。
歌舞伎での幕間の口上に、その「東西~東西~」があって、「隅から隅まで、ずいーっとお願い」なんてやってることを路上でやったわけです。「東西」とは、満場のお客様方へ申し上げますというような前置きですね。
大相撲では、呼び出しさんが「東~なんとか山」、「西~なんとか川」なんていって力士の名前を呼称しますよね。これは「東」と「西」が合わさってひとつの宇宙が成り立ってるという世界観。そして、呼び出しの後は、行司の登場です。「これよりの一番、片や、なんとか山~」と厳かに言い立てます。これも、口上のひとつの典型でしょう。
昭和初期のニュース映像に、「東西屋」さんが、神戸の新開地の映画館の宣伝をしてる風景を写したものを見ましたが、まさに、相撲の行司さんが口上を言ってるような感じでした。
現在、プロ、アマ含めて色んなチンドン屋がいますが、「口上」と称してやってることは、ほとんど、ただのセールストークです。これは、これで重要なんですが、本来、親方が大向こうを張ってやることじゃなかったかと思います。
僕が、この世界に入門したのは、30年以上も前になりましたが、当時、街廻りをしていると、家から出てきたお年寄りの方からよく言われたものです。「口上を聞かせてえな」と。で、お店の宣伝文句などを言ったら、「なんや、口上はせえへんのかいな」と家の中に引っ込んでしまわれたりしました。
その頃から、いったい「口上」とはなんだろうと、ずっと疑問に思っていたんです。先輩方は、たいてい、旅役者から流れてチンドン屋になった人が多かったんですが、聞くと、昔は、大きな笠をかぶった親方がいて、「東西~東西」から始まって春夏秋冬の風物を折り込んだ「口上」を、延々とやってた人が色々いたなあと。自分らは、そんな昔ながらのスタイルやじゃなくて、若手?やったから、寸劇やチャンバラをやって人気を掻っさらったんやと自慢話に移っていくのが常でした。それはそれでいいとして、昔の「口上」で観客を納得させていた世界ってどんなだったろうと、興味はさらに募っていくのでした。
あるとき、京都の「でぼ清」さんていう、当時80歳代だったチンドン屋さんのお手伝いをして(僕はまだ20歳代でした)、ああこれが「口上」か!と目が開かれました。「でぼ清」さんは、皺だらけの翁、太鼓も貧弱でしたが、声の張りだけは素晴らしく響き、また、その語る内容の面白いこと!辻辻で大爆笑をとっていました。
僕も、一日中、その口上芸に聞きほれ、演奏を止めるたび、さあ次はどんな話題をしゃべるのだろうとワクワクしたものです。歩く漫談家でしたね。歌もありました。
後年、昔のレコードで砂川捨丸さんの万歳を聞き、そっくりだと思いました。ひょっとすると、「でぼ清」さんも、捨丸さんのファンのひとりだったかもしれませんね。ただ、「でぼ清」さんは、作られたネタというより、新聞の時事ネタを思いつくままのようにやってましたから、かなり現代風?だったかもしれません。
まあ、それ以来、僕の「口上」探求の遅々とした歩みが始まったわけです。