僕がチンドン界に入った時は、とっくに口上芸は、すたれていたわけです。
かろうじて、京都の「でぼ清」さん、そのひと回り下の世代で、東京の菊の家さんあたりが、その片鱗を留めていました。しかし、そんな方々も、すでに故人となってしまいました。そのかわりに何か参考になるものがないだろうか?
僕は、古いレコードで、落語、万歳、浪曲、お坊さんの説教などを探っていきました。寄席だとか、ラジオやテレビの放送の世界ではあまりスポットを浴びなかった芸人さんの話芸に、何か土の匂いのようなものを感じて、それが大道芸の味わいの部分のような気がしてならなかったのです。
感覚的にですが、これは舞台では古色蒼然と映るかもしれないけど、大道でやったら今でもビンビンに通用すると思えるのです。例えば、講談でいうなら、邑井貞吉、二代目神田松鯉、三代目神田伯山。浪曲は、春日清鶴、岡本玉治、初代春野百合子、京山幸枝、等々。万歳や太神楽のレコードなども、口上研究の宝庫ですね。もっと広げると、能や狂言、浄瑠璃なども、見方を変えれば、土の匂いは相当残ってると思えてなりません。
根本に、声自体のこともあります。マイクの無い大道で人を引き寄せるには、力のある声量と人間が発しているとは思えない不思議な声質が不可欠。昭和初期と思われる、東京のチンドン屋「鈴勘連中」の残したレコードがありますが、その「鈴勘」さん、まさにガマ蛙の化け物みたいなダミ声です。
僕は、子供の頃、福岡の下町の商店街でどっぷりと暮らしてました。学校帰りの楽しみのひとつに、商店街に軒を連ねる八百屋さん、魚屋さんたちの売り声を聞いて廻るということがありました。皆、浪曲師のようなダミ声でしたね。中学の頃、ふと思い立って、それらを録音して廻ったこともあります。これまた、奇妙な中学生だったわけですが。何であのような発声をしなければならないのか、ずっと不思議でしょうがなかったわけですが、今ごろになって、ようやく、その回答の糸口が見つかってきたようなわけです。
また、「ダミ声」とは違いますが、能、狂言、浄瑠璃の声も、まさに大道や川原でこそ真価が発揮するのではないかと思っています。
しかし、こんなことを抽象的に言ってても理解する人は少ないでしょう。
まあ、そのうち、うちの事務所でたまに開いてた「マニアックサロン」を復活して、その場で持論の解説をやってみますか?古い寄席芸のレコードを聴きながら、どの部分が大道芸の素地や味わいを残してるのか、具体的に指摘しながら、参加者の方々と意見の交換をする機会をつくれば面白いでしょうね。僕が指摘する、それらの口舌芸の表現技術は、今後さらに退化していく部分ではないかと思います。そりゃ、活躍の舞台が、路上から舞台へ、あるいは放送演芸へと移った時、不必要な無駄な表現となってしまいますからね。
しかし、その捨てられそうな部分こそが、我がチンドン屋世界の将来において、いや、僕自身にとって、最も習得しなければならない核心だと思っています。
これは別にレトロ趣味なんかで言ってるんじゃないんです。こういう部分こそが、まさに地球規模での共感を勝ち得るかどうかの重要ポイントなんだと、まあ、僕は思ってるんですがね。
ちょっと大げさな話になってしまいましたが。