■<夢想流こそ我が命>第9話  「お客さんはどこに?」

見られていることに耐えかねてやる無駄な行為というのは、まあ色々あります。
やたら「いらっしゃい!」とかワアワアとセールストークを連発する、大きな音で太鼓をガムシャラに叩く、叩きながらくるくると回転する、子供に話しかけに行く(大概、逃げられますが)、たまたま通りがかった人の特徴なんかを大声であげつらったり等々。皆、無意識のうちに観客を散らそうと必死になってるんです。チラシを配る係になっていても、人がいないときに間がもてないからとタンバリンを持ってたりね。「口上」の担当をしてても、大した内容がないのですぐ話が終わってしまい、それで間が持てなくなって、チラシ配りの人間に、こっちの人に配れとか、あっちの人に渡しに行けとか矢継ぎ早に指示を出したり。

仕事から帰ってきてから、チラシ配りだった人の嘆くこと嘆くこと。もうすでに配った人の所へ行けとか、要らないと言われたばかりの人に行けとか、見当違いの指示ばかりで、「状況を知らんくせに何も言うな!」というわけです。そりゃ、知らんはずです、ただ、間が持てないからワアワア言うてるだけですから。
そんな連中が、今度は、ほとんど人がいないような状況でやらなければならなくなった場合、ジロジロ見られないから今度は生き生きとやれるかといったら、そうじゃない。誰もいないからやりにくいなどと言い出すわけです。これが演劇だったり音楽のコンサートだったらどうでしょう。客のいないリハーサルであろうが、客が多かろうが少なかろうが、それなりの手ごたえで全然やれるのではないでしょうか。中には、観客のいないほうが意識が集中するからやりやすいなどと言う人がいたりします。それはそれで、ちょっと変ですがね。

しかし、チンドン屋の街頭パフォーマンスも、本来、同じことだと思うんです。たとえ居酒屋のオープンのお知らせでも、あくまで「天」に向かってやるというつもりで。通行人や観客は、僕らが「天」に向かって演じているものをたまたま通りがかって、お相伴にあずかって見物させてもらってるという、そう思ってやってみると、随分、やりやすくなるはずです。その「天」が何であるか、人それぞれあってもよいでしょうが、とにかく、このべったりとした現在、現実とは次元の異なるものでしょう。「口上」というものは、やはり「天」に向かってのもの。周りのお客さんに話しかけられたり、説明したりは、また別の接客係みたいなメンバーがやればいいんです。まあ、大変な役目です。

この話かけてくる人(多くはおばちゃんや高齢者の方)というのは、まず人の話を聞かない、自分の話ばかりする人がほとんどです。でも、聞いてあげるのが役目です。時によったら、人生一代記を朗々と語るおじいちゃんも現れます。でも、初めて聞く分には、なるほどと面白いものです(何百回と聞かされた家族には苦行でしょうが)。で、さんざん聞いてあげて、その後に、「そもそも、あんたたち、何の宣伝してるんや?」という流れになります。この段階の後まで待たなければ、人の話など聞かないと肝に銘じておかなければなりません。

あ、そうそう、「天」に向かっての「口上」とはどういうことでしょう?理路整然と、お店や商品の説明をすることでしょうか?お酒を飲まない人に「ビール一本無料」だとか、頭の禿げた爺さんにおしゃれな美容室の最新技術を説明して、何の興味がもてるのでしょう?江戸時代中期から明治初期の引き札(現在のチラシ)の口上書きは見事な文芸になっておりまして、その美辞麗句には感嘆するほかはありません。春夏秋冬、花鳥風月を謳いあげながら、やがて、お店の来歴や商品のことを諧謔精神たっぷりに説明し、平身低頭、「よろしくお願い申し上げ…」と結びます。これは、かつて東西屋が街頭でやっていた「口上」を模したものだと思います。はたして、そんな美文調、路上の観客が理解したのでしょう?

しかし、皆さん、考えてみてください。お寺の坊さんが法事であげるお経の文句、意味がわかりますか?わからないということが、なんか有り難い気持ちにさせてくれませんか?神社の神主の祝詞もそうです。呪文みたいなほうが、なんとなく「あの世」とのコミュニケーションみたいな気分にさせてくれますよね。
そして、その言葉の音楽性も重要です。流行の「ラップ」も、日本語であっても、よくよく聞かなければ何を歌ってるのかわからない、そんなのがカッコええ!わけではありませんか。

まあ、というわけで、僕の今後の最大の課題は「口上」なんです。
60歳を前にして、なんとまあ、馬鹿馬鹿しいほどのスタートラインなのでしょう。

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本日の社長日記
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