■<夢想流こそ我が命>第8話  「人に見られるって?」

普段の生活で、他人からジロジロみられるなんてことは、まずありませんよね。
もし、そんなことがあった場合は、顔にご飯粒がついてるとか、服にクリーニング屋のタグがついたままになってるとか。何も理由がなさそうな時だったら、「お前、何でこっちをジロジロみとんねん!」などとくってかかったりもしたくなるわけです。

それが、ちんどん屋の場合、仮装をしてたり音を鳴らしたりして、わざわざ注目をあびるようなことをやってるわけですから、ジロジロ見られても当然で、さらにもっと「見られる」ように工夫したりもしなければいけないし、「見られて」いることに感謝せなあかんぐらんのはずなんです。ところが、まあ、プロ、アマチュアに限らず、「見られる」ことに耐えられる人はほとんどいなくなってますね。

化粧や扮装がどんどん過激にしていったりする心理を分析すれば、単に他人の視線を跳ね返すためだとしか思えない場合がほとんんどなのではないでしょうか。こっちを見てる人がいたら、すかさず「こんにちは」とか言って話しかける。向こうは、何だろう?とただボーっと見てるだけなのに。

そしてまた、いきなり宣伝内容を事細かに説明し始める。そんなことするから、「ああ、はいはい」とか生返事されて、窓や戸口をぴしゃりと閉められたり、立ち去られたり。市民パレードなんかに参加した場合など、声援を送る沿道の観客に近づいていって、延々と握手をしてまわったり。こんなことマラソンランナーならしませんよね。これらは、せっかく「見て」いただいてるのに、それに終止符を打つ行為を無意識のうちにやってしまってるのです。

他人から視線を浴びることを森林浴か日光浴みたいに楽しめる人は、大体、もともとの性格が向いてるようで、かなり少数ですね。そうでない人は、よほど意識改革していかないと一生、無理だと思います。かく言う僕も、このことに気づくのに20年はかかってますから偉そうなことは言えませんがね。

昔、踊りの先生から言われたことがあります。演じるということは、一種の軽い幽体離脱だと。後頭部の斜め上方に自我を浮かせる。そして自分の体を文楽人形のように操ってるつもりになってみなさいと。見てる人というのは、あなたを見てるんじゃない、あなたを通して「あの世」を見てるんやからと。また、視線を跳ね返してはいけない、無数の視線はあなたの体を通り抜けていく感覚を身につけなさいと。

わけのわからない不思議なことを言う先生やなあと思っていました。
20年ほど経ってからです、なんとなく実感としてわかってきたのは。

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本日の社長日記
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